ニューギニア (2011年6月)
パプア・ニューギニアに行った。空、海、ジャングル全てが色濃く濃密な島だった。雨も強く雨滴が打ちつけてくるようだった。貧しさにも胸を痛めさせられた。ワン・トーク(一部族一言語)が長くニューギニアの発展を妨げたとある本に書いてあった。
出発の前日の6月3日に風邪をひいたらしく38度の熱が出てしまった。パブロンを夕食後と就寝前に飲んで4日の朝には36度8分まで下がった。念のために家の近くの医院に行って風邪薬をもらって、午後成田に向かった。21:05発のニューギニア航空便に乗り、5日の4:40にポートモレスビーに着く(時差は+1H)。7時のマダン行き国内便に乗り換えて、8時に小さなマダン空港に到着。途中、雲の切れ間からオーエン・スタンレー山脈とおぼしき峻険な山々が見えた。
マダン空港では荷物はターンテーブルに乗らず、フォークリフトで運ばれ小さな木の棚の上に置かれる。荷物を受け取って外に出ると驚いた、、、裸足の人がいる!
空港から車で30分程でマダン・リゾートというホテルに到着。玄関には木彫りのさもニューギニアらしい人形が出迎えてくれる。思った以上に蒸し暑く、日差しもさすがにきつい。
ホテルの庭に大人のこぶしぐらいの大きさの花がまるで地面から咲いているかのように落ちていた。ダミアンツリーという大きな木から落ちてくる花だ。5日はツアーの打ち合わせをJICAでニューギニア政府観光局からマダンのツアー会社に派遣されているKさんと、ダイビングのインストラクターをしている女性のYさんと簡単にした程度で、夜行便と風邪の疲れからか寝てばかりいた。夕暮れに島の人達が小さな舟で島に帰っていく風景が、、、。
6日は予定外であったがダイビングをする北海道と宮崎から来た人達とボートで海に出た。オーストラリアからの女性二人とシュノーケリングをしたが、20年ぶりの海での水泳となった。とてもきれいな海だった。
午後は旧日本軍の飛行場後に眠る100式重爆撃機「呑龍」を見に行くことに。途中、飛燕のものだという水冷式エンジンが道端に放置されていた。飛行場付近だという場所は木が少なく腰までの草が生い茂っていた。
森の方に少し入ったところに「呑龍」があった。機体が少しずつはぎとられ年々小さくなっていくという。まわりには爆弾の跡もおおく、直径4〜5mの池になっている。
「呑龍」を見て次に向かおうかと車に乗ると、湿地に車がスタックしてしまった。最初の場所は車を押して脱したが、2度目の場所は押してもだめ、救援の車が来てチェーンで引っ張ってもだめ。2時間余り格闘して疲れてしまった。私とJICAのKさんだけ夕暮れが迫る中、ホテルに救援の車で帰った。ホテル近くのマシンガン・ビーチに来ると子供達が泳いでいて、カメラを向けると色んなポーズをとってくれる。
マシンガン・ビーチ、日本軍の速射砲があるからその名がある。ほのかな夕焼けもきれいで、マシンガンの台には現地のカップルがいてなかなか離れない。JICAのKさんが「日本から来たので写真を撮らせてほしい」とお願いして、ようやく記念写真を撮った。
7日は部族の踊りシンシンを北海道と宮崎のダイバー3人と一緒に見学に行くことになった。朝からホテルの近くのマーケットへ買い出しに行く。驚いたことに中国製の肥料の空き袋を利用したショルダーバックがこちらでは流行っていて、マーケットでも売られていた。
タロイモやその他野菜、そしてニワトリもそのまま一羽買っていく。それにしてもニューギニアの人は挨拶をよく交わしてくる。返事をしないと相手の機嫌を損ねトラブルにもなりかねないので、必ず応えるようJICAのKさんのアドバイスがあった。そこで”モーニン”と”アッピーヌーン”を連発する。
マーケットの近くに蓮の花が咲いている池があるが、最近ワニが出たと話題になっているとのこと。車で少し田舎に入ると写真のような小さなマーケットをよく見かける。
山間の道にも店が出ていて、ドライバーのBusybee氏がタバコ数本を買う。見晴らしのいいところで休憩をしていると大きな青い羽根の蝶が飛んできた。滅多に見ることができないマダン・クイーンだということで皆が追っかけた。ようやく近くで見ることができたが、マダン・クイーンではなくてパピリオユリシスという蝶だとドライバーが教えてくれた。
ようやく目的地のバリルナ村に到着。パパと呼ばれる族長のライさん、終始にこやかに我々と話をしたり、子供たちを見守ったりしておられる。
ライさんの家の庭伝いに小学校がある。教室は授業中のようであるが、遊んでいる子供たちもいる。
子供たちは人懐こく、我々によく近づいてくる。ライさん一族の女性たちが集まって昼食作りを始める。そのまわりを子供たちが遊びまわる。
ヤシの実の殻は燃料にもなる。ここで採ったばかりのヤシの実を飲む、採りたての実を飲むのは初めてだがなぜかひんやりと冷たく美味しかった。食事もすんで、いよいよ部族の踊りシンシンが始まる。頭の飾りは極楽鳥の羽根。
ライさん一族総出のシンシンだ。シンシンはニューギニアの数百もある各部族に伝わる踊りで、名前の由来は英語のsing singからきている。
9月の独立記念日に全国的な規模で催されるシンシン大会が有名だ。ぜひ上の【シンシン動画】のボタンをクリックして見てください。
土産にこの太鼓を買って帰ろうと思いホテルのショップで見つけたが、トカゲの皮が張ってあるようだ。ワシントン条約に引っかかりそうで、対象外の動物である証明書の発行も間に合いそうにないのであきらめることにした。
記念撮影をお願いして家の裏に行くと、ビルムという手編み袋の中で赤ちゃんが寝ていた。『国民的バッグ「ビルム」は、高級ブランドに負けないデザイン!』とニューギニア政府観光局のHPで紹介されている。
ホテルに帰る途中、マダンを象徴するガシュマロの大木を見学。ホテルに戻るとウエワクで暴動が起き、滑走路に石や空き缶が投げ込まれ空港が閉鎖になったとの連絡が入った。16時30分に私だけサンセット・ツアーに出かける。日没までに時間があったので、日本軍の部隊がジャングルの中の沢づたいにいたというホべ村を訪れることにした。地主のジョエルさんが案内してくれた。ニューギニアではほとんどの土地が個人所有のため、地主の許可がないとこういった場所にも入れない。またこちらでは例えジャングルの中の家でも、自分の住居まわりはとてもきれいに手入れをしている。
ジョエルさんの先導でジャングルの中を沢伝いに下りていく。足場が悪い上に枝や蔓も邪魔をする。ここに部隊が展開していたとはとても信じられない。5〜6分で少し平らな所に出て、コンクリートの台の上に不発弾と小銃弾が並べられ、日本軍日本軍の部隊が隠れ住んでいた事を記したプレートが置かれていた。
家の近くまで戻ったところでジョエルさんがカカオの実を採ってくれた。トウモロコシを太く大きくしたような感じだ。一片を口にした、なんとなく甘くまた生臭い。夕日の名所と案内してくれた場所はアレメ村の小学校。校庭の端が断崖になっていて、この断崖の上から眺める。下はジャングルでゴーゴル川が流れる、この辺りにも日本軍が展開していたという。遠くの山はシギリッジ山。
大自然の中の落暉。70年近く前に日本の兵士たちも眺めた、きっと望郷の念を抱いて。写真を撮っていると小学校の先生や奥さんや生徒らしき子供たち、色んな人が集まってきた。帰るときに盛んに手を振ってくれた。
8日朝、ホテルのチェックアウトをして戦跡巡りに行く。最初に行ったのはヤボブ村の慰霊碑。昭和42年に東部ニューギニア戦友会が建立したもの。蝋燭と線香とタバコを供えた。
次に行ったのは日本軍桟橋跡、ここは残念ながら一部の残骸が残っているだけだった。その近くに高射砲が放置されていた。
最後に訪れたのはアムロンの丘、第18軍司令部のあったところ。木々に囲まれた家は、軍司令官安達二十三中将が住んでいたといわれる。司令部跡に上の方に葉が扇のように開いた木があった。葉が東の方に向いて開くことから「旅人の木」と呼ばれるとJICAのKさんが教えてくれた。が、東を向いていないように思えた。
そこに大きな蝶が現れて、また追っかけた。これがマダン・クイーン。
帰りにバレック村に寄る。昔ロビンソン・クルーソーの映画が撮られた場所だという。硫黄分の多いエメラルドグリーンの川も流れるが、朱い葉の植物や20m以上も垂れ下がるツタのようなものが群生している方が目を引いた。
近くの民家の庭先に大きな鳥がいた。いかにもニューギニアの鳥という感じ。午後ホテルに着くとウエワク空港は閉鎖されたままで16時50分の飛行機は飛ばないという連絡が入った。9日は間違いなく運行されるということも聞いたが、、、。午後の予定がなくなりなくなり、ホテルの近くをブラブラして、あとは昼寝。
9日の朝にウエワク行き飛行機が飛ぶと聞いて再びチェック・アウトするが、昼には再び空港閉鎖となり結局ウエワクはあきらめることになった。せっかくここまで来たのだからと思い、東京の旅行会社とポートモレスビーの代理店に電話して、10日にラバウルに行く手配をしてもらった。
この日は朝からひどい下痢が始まった。思い当たるのは、前夜に食べたシーフードのココナツカレーだ、トッピングしてあった貝が怪しい。
ホテルの近くで時間を潰す。ホテルの敷地伝いに入江があり、島々にいくボートの発着場がある。暗くなっても雨が降っても出ていく。沖の方に出ると波が結構うねる。心配して後で聞いてみると悲惨な転覆事故がやはり起きることもあるようだ。
9日の夜は激しい雨が降った。ホテルの中庭はあっという間に水浸しになった。大きな雨粒がザーッと音を立てて矢のように激しく降る、これがニューギニアの雨かと知らされた。ホテルのロビーにストリー・ボードが飾られてあった、一族の物語を子々孫々伝えていく重みのようなものを感じた。
10日は朝5時半にホテルを出発してマダン空港に向かう。なんとチェック・アウトを3回もしたことになる。ラバウル行きの飛行機は8時30分発で途中ラエとニューブリテン島のキンべを経由して12時過ぎに到着する。マダンからラエへの航路は、かって第51師団がラエからキアリに撤退するときに凄惨を極めて越えたサラワケット山系がある。またラエから飛び立った眼下には激戦地のフィンシュハーフェンと輸送船が沈められ多くの犠牲を出したダンピール海峡が見えた。
ラバウルに着いてホテルで一息いれた後、戦跡巡りに。まずシンプソン湾を見下ろす山の中腹にある「南太平洋戦没者の碑」に。昭和55年に日本政府によって建立された。碑文には「さきの大戦において南太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」とある。
ラバウルの街は1994年の火山の大噴火で一変してしまったという。美しい街並みも5〜6mも積もった火山灰の下に埋もれてしまったようだ。旧飛行場跡地も火山灰が埋め尽くしていた。今も噴煙を上げるダブルブル山(旧日本名:花吹山)。
近くのアドミラル・バンカーに寄る。総司令部が入った塹壕で、山本五十六長官も入ったと言われる。
アドミラル・バンカーの隣に小さな資料館があり、飛行機の一部や機関砲や当時の写真などが展示されている。山に沿った道路では日本軍のトンネルが沢山掘られていた。
ラバウルの街は火山灰に埋もれ気の毒に思えてならなかった。下痢もおさまらず戦跡巡りも大幅短縮し11日朝空港に向かった。11時20分のポートモレスビー行きに乗るのだが様子が変だ。たまたま一緒になった若い日本の4人と情報を交換すると、彼らの7時30分の飛行機も飛んでいない、飛行場に一機待機している飛行機があるがトラブルで引き返してきたもので、ポートモレスビー行きはまだラバウルに入ってきていないということが分かった。彼らも私もポートモレスビー14時20分のフライトで成田に帰る予定なのだ。成田便は週に2便しかなく乗り遅れれば更に4日をニューギニアで過ごさなければならない。激しい下痢の私は一刻も早く日本に帰りたい!
飛行機は1時間遅れで出発した。機内でアテンダントに成田便乗り継ぎのサポートをお願いし、我々はスムーズに国際線のカウンターに行けたが、荷物が来ない。荷物を待って、成田便は40分遅れで出発した。
成田には11日の20時20分ころに到着。最終の成田エキスプレス、新幹線、名鉄電車と乗りついて12日午前0時45分に自宅に着いた。帰国のことも考え10日夜から絶食状態だったので、コンビニで買ったおにぎりを食べた。とてもおいしかった。
下痢は日本に帰ってからもおさまらず脱水症が高じて17日にはとうとう入院までしてしまった。2日で退院したものの、体調不良は6月末まで続いた。